突然、夏目漱石の「草枕」を読まねばならない気持ちになったので早速買ってきて読んでおります。
こういう時の「読まねば!!」とか「聴かねば!!」という直感はわたしの琴線にたいてい大当たりしてくれますので見逃さないようにしています。そしてやはり「草枕」は今のわたしにとってとても響くものがあったのでした。
余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。夏目漱石『夢十夜・草枕』集英社文庫 P.49 L.9〜
わたしはこの引用部分がとても嬉しくて大好きです。
世間的人情とは苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりすることです。これらの感情を意図的に鼓舞して感動を誘うような手法もエンタメでは大事(とされているよう)ですが「草枕」の主人公「余」はそれを嫌だと断言します。わたしはそれがたまらなく嬉しい。
「俗念を放棄し…」について、わたしはそれを手放しで喜び歓迎します。
ただ、この「俗念を放棄」に関してわたしが解釈するところは、
西洋的な「ただただ平伏すような美」を意味していないということです。
非現実的もしくは非日常的な喜びや快楽を我々に与えてくれるような
派手でパワーに溢れた美ではないと思います。
草枕の「余」が求める詩美とはもっと素朴で簡素でありふれたものだと思うのです。
もっと直接的に言うと「金にならない美」なのです。
絶対にビジネスで利用されない美なのです。(というよりビジネス脳を持つ者に抹殺される美です。)
わたしはそんな詩(美)を愛しているし、
そういう素朴な美を愛でる感性を持ったひともたくさんいると思っています。
だけど「売れない」という理由で商品にはならないのです。
商品にならないから価値がないと世間から思われ、そして消えてゆくような…
そんな心配をよくします。
こんなこだわりがあるから
わたしの漫画も商業的成果が出ていないのでしょうけれど…!!!!ねっっっ!!!!笑。
だけどこういう自分の霞のような頼りない美意識を手放す気にはなれません。
それがいまのわたしの使命のひとつのような気もするからです。
これでいいのです。
わたしのサイト名「低徊趣味」も漱石の言葉です。
広辞苑では「世俗的な労苦を避けて、余裕ある気分で東洋的な詩美の境に遊ぼうとする趣味」とあります。
ずっと前につけた名前ですが、
今になってやっと自分の実現したい方向性とサイト名がシンクロしてきたように思えて不思議です。
自分のしたいこともわからない頃から漠然と惹かれるものがあったのでしょうか…?
とても気に入っている言葉です。。。
※低徊趣味または余裕派の意味はこちらより詳しく説明されております。というか提唱。↓↓
■高浜虚子著『鶏頭』序