「人の本性」や「裏の顔」というキーワードについて考えてみた
「人の本性」や「裏の顔」というキーワードにわたしはピンとこないところがあります。でも物語作りやエンタメを提供していく上で軽視できないポイントでもあると思うのでちょっと考えてみました。
「人の本性」や「裏の顔」というキーワードが出てくるのは大概、相手を理解したとか相手の本音や本質的な部分を把握したといった文脈で登場します。
物語を作るうえでキャラの本性や本音、裏の顔が見えたとき、読み手はグッとくるものがあると思います。それがないと物語を読んだ意味がないという人も多いと思います。キャラの魅力は表の顔と裏の顔のギャップにあるという人も多いのではないかと感じます。※わたしはギャップ萌えについてまだピンときていないので研究中です。
人の本性なんか本当にわかるのか?
ただ、わたしは思うんです。
人の本性なんかを本当に理解できるのかと。ただ、「理解した気になっている」だけではないかと。
この「理解した気になっている」ことこそ重要なのではないかと思うのです。理解できる気がする気持ち、つまり共感です。必ずしも相手と同一の気持ちでなくても心が共鳴しさえすればいいのです。
相手の都合とは関係なく、自分の心の琴線に触れるかどうかが重要なのです。
※「人と人の心が通じ合う感動なんて存在しないぞ!」とでも言いたげな文面で申し訳ありませんが、わたしは決して悲観的ではありません。わからないものにも関わらずなんだか通じた気がする幻想によって絆が深まることこそ人間の素晴らしい部分だと思っています。
そう考えたとき、気づいたことがあります。
本当は相手の本性を100%理解できないのに、さも理解できたかのように思えるのはなぜか。
それは他者を通じて自分の本質を見てしまっているせいではないか。自分の身に覚えのあることを他者を説明するに乗じて語っているのではないか。つまり、ひとの本性だと思って喜んでいたのは自分のコアの部分ではないのか。
他人は自分を映す鏡とはまさに……。
自分の身を削って描く……
先日の配信で「キャラクターに参考にした人物はいるのですか?」という趣旨の質問をいただきました。
モデルはいませんが、どのキャラクターもわたしの良くない部分を少しずつ散りばめて作られた人たちだと思っています。だからキャラクターが活き活きしているように見えるときというのは、わたしの隠蔽したい部分がつまびらかになっている状態とも言えます。
でもそれが読み手にとって一番面白い状況なのであえてやるのです。他人の不幸で飯がうまいではなく、自分の不幸で他人を喜ばせるんです。
「作家はみんな自分の身を削って描いているんです!あなたの漫画にはそれがない!」
昔々にお世話になった編集さんに言われた言葉です。
今なら身に沁みて理解できます。
これからも身を削りに削るため、自分自身をありのままに見つめられるように、鍛錬を重ねていきたいです。