低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

戦う本能

↓の本を読んでいる途中で気づいたことがあるのでメモしておこうと思います。

9条どうでしょう (ちくま文庫)

9条どうでしょう (ちくま文庫)

選挙が近かった(もう終わったけれども)のと、憲法改正についてよくわからないので読んでいたのですが、今回の気づきは憲法とはあまり関係ありません。

町山智浩さんの章に戦争は男の本能的なもので、いい悪いでなくてそういうものだからしょうがないんだよ…というふうなことが書かれていてわたしはなるほどなんだか納得するものがありました。
ここで出てくる「男」とは遺伝子上の男という意味ではなくて、人間の「男性性」の部分のことを言っているんじゃないかとわたしは受け取りました。(文章では遺伝子上の男について語られていますが)

未開の部族の戦争は、政治的目的よりも儀式に近い。 ……略…… 戦争とは要するに「祭り」なのだ。(ちくま文庫版 p.86 l.24〜)

 この祭り=戦争で敵を倒すこと以上に重要なのは、我が身を危険にさらす勇気を示すこと。(ちくま文庫版 p.87 l.5〜)

わたしは喧嘩や暴力や殺しに対する欲望があまり理解できませんし、
勝負事や「敵」をつくることに興味がほとんどありません。
(そのためわたし相手では喧嘩に発展することはほぼありえませんし、
試合の観戦も興奮しすぎて気を失いそうになることもありません…)
たぶん本能的に競ったり比べたりするのが好きでないのです。

しかし上の引用の部分に出会って、自分とは感覚の違うひとがいることを理解しました。
「己の勇気を示すこと」に生き方のフォーカスが当たっているひとが存在することを知れたのです。
勇気を示すために身を危険にさらす。危険は大きければ大きいほど自分の勇気の大きさを示す価値がある。。。
競うことや他を圧倒することが本能的に好きなひともいるということ。

そう考えたとき、やっぱりワールドカップとか世界大会というのは
わたしが考えている以上に大事な催しなのだなあと思いました。
人と殺しあうこと以外で勇気や力を誇示できるような、
それを周りが讃え讃えられていると実感させる場所。
それがスポーツ競技やゲームの役割でもあるんだなあと気付きました。
(激しいスポーツだけでなく、将棋とかギネス記録とか技術開発とか含め、あらゆる「競い事」が…)

だからそういうわけで、わたしはこれまで興味関心がなかったワールドカップ
世界陸上も駅伝もちゃんと見届けられるようになった方がいいんじゃないかと思いました。

「祭り」は戦うひとたちだけでは意味がないのです。
勝負を見届け褒め讃え盛り上げるひとたちもいなければ。
讃える側の声の大きさが勝負の価値を決めているようなものですから…。
すべてを掛けて戦った者を全力で褒め讃え祝福するというのは、
世界をへいわに保つためにものすごく重要な姿勢なんじゃないかな。

それがひとの「戦う本能」を尊重するあり方なんじゃないかと
そう思います。