『街場の憂国論』を読んでいて、わたしの日頃感じている言葉の不自由さを表してくれているような文に出会えた。
自分が何ものであるかということは実定的には指示できない。記号は「それが何でないか」を言うことしかできないからである。そして、私たちが「自分が何でないか」を言うために参照することのできる記号は原理的に無限である。(p.112 l.8〜)
記号は「自分が何でないか」を言うことしかできない。
この感じがまさしくわたしの感じている言葉の不自由さである。
遠回りにしか本質に近付けないもどかしさ、
「本質に近付く」ことはできても触れることは決して出来ない無念さである。
それが当たり前ならば、
言葉で本質を示すことなど出来ないことを
聞き手も話し手も了解しているならば
何もストレスを感じることなどないのだ。
わたしは無意識のうちに
言葉によって気持ちやものの本質を
一発で表すことが可能だと錯覚しているところがある。
目の前の相手からは
言葉によってありのままを表現することを
期待されているのではないかと感じてしまう。
そんなことはできない。
できないことをわたし以外のひとが言葉にしている。
そうそう!そうなんですよ!!
こうしてわたしは自分の抱いている違和感とか言い表しがたい感覚に自信を持てる。
自信は持てても気持ちを楽に表現できないことに変わりはない。
しかし、「「自分が何でないか」を言うために参照することのできる記号は原理的に無限である。」ということが
非常に希望的でうれしいし、安心する。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2013/10/05
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (16件) を見る