わたし好みのテキストを書いてくれるある人が、わたし好みのテキストを書いてくれる別の人を批判する。……という事象が同時多発的にTwitterのタイムラインを流れていく。
わたしは思う。
わたしは誰が何をしたときに暢達に批判するだろうか。
冷静沈着状態のときはそのような問いのこたえを特に思い浮かばないようだ。
嫌いという感情の発露は自分のこだわりや大事にしているものを炙り出してくれる。
炙り出しのように炙り出しに使った炎が消え静寂が戻ったときに「これだったのか」と視認できれば嫌悪もまだ救いがあるだろう。
実際の嫌悪は目を凝らさなければ見落としてしまうような、光が陰れば途端に見えなくなる透かしみたいだ……。
自分の嫌悪の正体にたどりつけない。
そして自分の発した言葉によって自分が傷ついてしまう。
わたしは嫌いなものがたくさんあるが、それらは自分のこだわりを逆撫でするからだと感じている……。