低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

努力をアピールしてもいいことないゾという話

何を努力したかとか、どんな努力をしてきたかという自分を鍛えるプログラムの内容を他人に教える必要はないと気がついた。

「私は毎日10km走っている」とか、「毎日5時間楽器を練習している」とか具体的な行動と数字がともなうような努力の共有。

 

どんな努力をしているか、してきたかを他人と共有すること。それは目の前のコミュニケーションに本当に必要か?

 

他人とやりとりをする上で具体的な努力プログラムの内容を話題にあげてしまうと、他人と最終的に深めたい抽象的で未知な価値を作り上げるためのコミュニケーションを阻害してしまうのではないかと思った。具体的な数字の見える頑張りは想像をしやすいぶん自分と比較ができてしまう。それによって相手の受け取りかたや感じかたも具体的になりやすい。「私よりずっと頑張ってるな」とか「私はそんなことしたことない」とか。

そうすると、コミュニケーションを通じて本当に育てていきたい抽象的な話は相手の中で霞んでしまう。

 

だから努力を他人に伝える必要はないと思う。また同時に努力の果てに何を得ようとしているかを常に意識する必要があるし、それは自分だけがわかっていればよいのだ。

努力を他人にアピールしてもいいことがない。

努力の記録を公表すること(他人がアクセス可能な状態にしておくこと)は非常に有益だと考えているが、コミュニケーションに使用してはだめだ。

 

隠れて努力をしているほうがカッコいいからではない。(そういうのをカッコいいと感じることは自然だが。)

 

 

わたしはよく「自分はこんなことしてきた」と他人に言っていたので、それが全部悪い方向へいっていたことにようやく気がつけました。これもまた「恥の多い生涯を送って来ました。」の一種だと思いました。みっともないことはヤメて!と友人によく言われたものですが、こういうわたしを友人はみっともないことだと教えてくれていたんだなと気がつけました。こんなわたしでも生かしてくれるんだから神様ってやさしいですよね。