低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

主語を「わたしは」にすると人が聞きたくなるような物語になる

主語を「わたしは」にすると人が聞きたくなるような物語になる。

そんな仮説を思いつきましたのでメモしておきます。

 

そこらへんのニュースやSNSを流れていく言葉をぼんやり眺めていて「我々の世代はこうだ!」とか「今の女性はこうだ!」とか、主語の指す範囲が広い文言が溢れかえっています。

他の誰かの事情や気持ちを代弁しようとするとえらく立派に見える反面、大袈裟でわたしと関係のないことのように聞こえたり、わたしには関わることのできない存在に見えたりします。メッセージだけを受け取って、そのうえでわたしはどうしたらいいのかがわからなくなってしまいます。

メッセージを受け取ったところで何もしてやれないし、考えることもできないので自分から遠いところの話として流れていきます。

 

一方、「わたしはこんな体験をした」系のメッセージは大人気のように見えます。内容の良し悪しに関係なく注目されるし、いろんな人を楽しませているように見えます。

 

「わたしは」が主語になるメッセージ。

つまり、私事(わたくしごと)に価値があるのかもしれないと思いました。

 

「わたしはこんな体験をしました。」

「わたしはこんなふうに感じました。」

「わたしはこんなふうに考えました。」

「わたしはこんなふうに行動してみたんです。」

このような一つ一つの個人的な体験と考えの連続で物語は出来ているのかなと思いました。

 

ですから「我々は」「わたしたちの時代は」など大袈裟に語ろうとしなくていいのだと思いました。つい、みんなにとって価値のある物語は「我々の世代のムード」や「時代感覚」を表現していると評されているように思って自分も今の時代を描かなきゃとか、気負ってしまうのですが……描くべきはそんな大袈裟な心構えなど必要ないんだなと自分の勘違いに気がつけました。

 

そうすると、どこまで「わたしは……」と自分自身のことを話せるかに尽きるのでしょう。

大多数のひとは超個人的なことを話すことをためらいます。怖くてできないし、自分のあたりまえに価値があるとも気がついていないことが多いです。自分自身のことも他人のことも観察しきれていないから大勢の論調に同化してしまうし、人に伝える経験も少ないせいで自分の体験や気持ちを表すことも上手くできないのかもしれません。

 

超個人的体験や超個人的気持ちといった、みんなが表現したくてもできないことをあえて自分ごととして物語るのがストーリーテラーの役目の一つと考えて取り組んでみるのもいいかもしれません。