北寄りカントーチホーに住んでいるので今日は久しぶりの積雪だった。
早く雪が溶けるように雪かきをした。
隣近所のおじいちゃんにもついでに雪かきやっておこうかと声をかける。
「自然に溶けるから大丈夫だよ」と言われるけど、
ノーセンキューでも話しができてよかった。
選挙へ行って枯れ枝に雪を乗せた木々がとても綺麗でいつもと違う街の景色だった。
Xやインスタに投稿はするがタイムラインはもう眺めていない。
だから選挙、政治、経済、戦争に関する他人の意見表明は読んでいない。
不安と恐れの感情をベースにして物事を見て、
考え、
発信する言葉ばかりが目に入ってくるから。見るのをやめた。
もっと他者を疑え!もっと他者を信じるな。もっと自分のために利益を最大化せよとでも言われているように感じる。
わたしの先生は言う。
「自然は、他を生かすために己を差し出す犠牲心のうえに成り立っている。」
これは、「じゃあ、俺のためにお前死ねるのかよ?死んでみろよほら!」と言い返したくなる人がイメージする犠牲心の意味ではない。
自分がこれまでどれだけ多くの命の犠牲の上に生かされてきたか。
それに気づいているか?
理屈で理解するのでなく、納得感をもって思い知っているか?
そういうことではないか。
犠牲心という言葉が誤解を生みやすいのを承知の上であえて先生の言うままに書く。先生の言う犠牲心とは、「今生きている生命の視点でみると、さも周りが自分のために犠牲になってくれたかのように見える」という意味と経緯が含まれた言葉だとわたしは捉えたからだ。
人の語る中に登場する「言葉」は、「単語」は、辞書的な意味と同じであることはまずない。
話が長くなったが、
何を言いたくてこんな記事を書いているかというと、
わたしは不安や恐れをベースにものを考えるうちは自己中心的であると考える。
不安や恐れを退けるために平和を訴えたところで、仮想の敵を同時に生み出しているように見える。
人間だけでなく、
「環境」に含まれるあらゆる要素をまるごと全部
快適にしたい、平和にしたい、幸せにしたいと
願い行動すること。
その連続が世界を、社会を、自分の住むエリアを安定させていくのではないか。
わたしはそう考える。
だからわたしは自分が住んでいる小さなエリアをこまめに世話して声を掛けて褒めて大事にする。それが世界を平和に近づけていると信じられる。誰にもやれることだと思う。
釈迦の教えに本当のエゴイストになるならば、他を生かそうとするようになるでしょうと聞いた。それが一番、個人的利益を最大化させるからと。
わたし生きたいんで、誰も死ぬな!の終極を目指せばいいのだと。