低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

リスクをとって書いてみれば

表現もまた、リスクを取る行為なんだ。
内田樹の「疲れすぎて眠れぬ夜のために」を読んでいてふと思った。
すぐに思い付いた具体的リスクは、誤解/誤読されることだ。
自分の表現したいものを最大限披露するためには、自分の思想や哲学に反するものを作品中に登場させることも必要となりえる。
わたしの場合、「悪意に満ちた良識の欠片もない人間」とか「殺意が芽生えるほどの嫉妬」、「憎悪」なんかが哲学に反するものに当てはまる。こういう類の感情や思想は気分が悪くなるだけだし、非生産的で興味なんかもちたくもない。
だから、今までも作品の中にはそのような「悪意」を描くことは全くしてこなかった。
けれど、本当にそれでよかったのだろうか?「悪意」から目をそらし、背を向けて、物語から切り取って排除して、それでよかったのかな?それで、わたしの描きたかったゆったりした穏やかな世界は誰かの中に創造されたのかな?
理想の時間をありのまま描くことよりも、わたしなりの悪意の解消方法を見出だしていくことが大事だったんじゃないかな?


さて、そこでリスクの話に戻るけれど、自分の表現したいものを最大限披露するために、自分の思想や哲学に反するものを作品中に登場させるとする。そのとき、本来伝えたいものよりも、見せたくないものの方へ読み手の意識が強く向いてしまうこともあるかもしれない。つまり誤解されるってこと。表現者の技術力の問題は抜きにしても…。誤解されることはある。いや、誤解されてばかりなんだ何もかも。
多少(書き手の趣向や人格とかを)誤解されたとしても、一番表現したいことが同時に伝わってくれたら、それでいいのだと思う。
一度のコミュニケーションで、言いたいことを全て伝えることなんかできないのが普通だもの…


なんか長文書くと一層ぐちゃぐちゃしてくるなあ。要は、次のことに気づいたってことが言いたかっただけなんだけど。
わたしは何のリスクも取らずにただ作品を作っていただけだったんだ…。って。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)