低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

創作に協力者がいたら・・・と思うわけ

次の文章は以前(3/5)に創作に協力者がいたら…という理想を実際に書きだしたものです。が、書いているうちにちょっとごちゃごちゃしてきました。ごちゃごちゃしたけど、一度アップしちゃいたいなーという気分で公開するので2、3日で記事を削除するかもしれません。しないかもしれません。「こうしたいな〜」という想いはどんどん人に見せた方が実現しますよと誰かも言っていました。その意見に便乗してわたしも公開しちゃおーというのりです。でも想いは真剣です。


だれか、創作に協力してくれる人がいたらいいなと思うときがある。

担当してくださる編集さんも協力者ではあるけれど、
見せる前段階でものを生み出すのに協力者がいたら…と思う。

しかし、わたしの考える協力とは、二人(もしくは三人)で一つのものを創り上げるというのではない。

理想的なのは相手も何か創作(漫画に限らず)をしていること。
互いの創りあげたい/表現したいもののためにどうしたらいいか相互協力し合う。
この協力は、相手のしたいことをとにかく聴いて聴いて聴くこと。
聴いてもらう側はとにかく考えを相手に伝える。
アドバイスをもらうことが目的ではない。
求められれば答えるし、求められなければそのまま相手を見守る。
アドバイス自体も採用したりされたりが目的でない。かなりドライでハイスピードな関係だと思う。

ドライとはいえ、かなりの高品質コミュニケーションである。
相手の理想(表現したいもの)を実現するために献身する。
かつ自分も理想を実現させるために徹底的に自分の創作に力を尽くす。
(そう、自分の創作を相手に頼るのではない。)

だから、話や演出を考えるのも絵を書くのも今と同じで全部自分がやる。
違うのは、どうしたらうまく表現できるかを考える過程に、他人が介入してくれるということ。


そんな風に考えていたとき、内田樹レヴィナスと愛の現象学」を読んだ。

「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ」

とあって、そう!それだピカーン!となったわたし。

わたし以外の誰かと対話を通じて思考を解放したい。

一つの問題に対して、
「最終的な合意に達しないままに問題が次々と掘り起こされてゆく論争の運動性、開放性」を感じたい。
というか生み出したい。

たとえば、「信じるとはどういうことか?」ということについて誰かと考えたい。
答えは絶対に決まらないだろう。
そもそも答えを決めること、探しだすことが目的でない。
「信じる」行為についてどれほど多くの相を見いだせるか、
対話を通じてどこまでも探求したい。

どうしてそんなことをするのかというと、
自分の表現したいものの軸を捉えたいからだ。

一つの物語にテーマは一つ。
始めはテーマが一つで作り始めるが、
深く考えれば考えるほどに別のテーマが生まれてきて
いつのまにか一番描こうとしていたテーマから遠ざかる。
いや、テーマの濃度が薄くなる感じに近い。
物語に一つの濃いテーマを与えるためには、
一つのテーマが持つ多くの顔からただ一つの顔を選び掴まなければならない。


そうか、テーマは多くの顔を持っている。
(こうして文章を書いている内に気付くこともありますね。)


「もし、1つだけ何でも願いが叶うならどうするか?」
なんてテーマを設定したとして、ここから物語を考えるともう混乱。
「誰のために願うか?」「何を願うか?」「どうして願うのか?」「何も願わない場合はどうしてか?」「願いを誰がに叶えてもらう必要はあるか?」「願いとは何か?」…etc.
おええええええ、もうわたしはわけわからなくなってきましたよ。

そもそもテーマ設定が失敗しているんじゃないの?と思われるかもしれません。
それもあると思います。
現に先日も読み切り向けでないテーマを使ってネームを全ボツにしたりしました。

だけど、それも含めて、軸を一つ選び出すために誰かと対話したい。


わたしはそんなに賢くないのです。


何も知らないし、掴み所ないし、想いを形にできない。
支離滅裂な人間なのです。

だから一人で考えて、一人でモノを作っていてもだめなんです。

誰も理解できないのです。残念なことに。

他人にわかってもらえるように、
伝えたい事を1つだけ選び出すこと、シンプル化することが必要なのです。


そのために、わたしは対話してくれる協力者に出会いたいと思うのです。

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

↓↓投票おねがいしますー!
にほんブログ村 漫画ブログ 漫画制作へ
にほんブログ村