低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

じぶんの挫折経験を過小評価していたようだ

昨日、家入一真さんがこんなツイートをしていた。

http://twitter.com/hbkr/status/370937261279285248:twitter:detail:left

TwitterのTLはいつもさらーっと眺める程度なのでこのツイートも他のツイートに混ざってさらーっとPC画面上を流れていったのだけれど、とても引っかかるものがあるツイートだった。理由はわからなかった。

それで今日、なんとなくだけれどこの意味がわかったというか、感覚が理解できたような気がした。
わたしはこれまでの人生で「なぜ自分がここに生きてるのかを考えてる」人についてあまり実感がわかずに生きてきた。共感ができなかったというか…。「弱い者いじめにあった者は人に優しくできる」とか「痛みがわかる人になれる」とかありふれたメッセージではあるけれどその「真意」はずっと掴めぬままであった…。

だけど、自分が過去にこんな記事を書いていたことを突然に思い出し、家入さんのツイートが腑に落ちたりしたのであった。
↓↓
2011-06-30 漫画のことしかない

わたしの場合、「(肉体的意味で)まだ生きてるということは、まだ漫画描けるってことだ!」って(一応の)結論を出した(今でもまだそう思っている…)けれど、「なぜ自分がここに生きてるのかを考えてる」っていうのはこういうふうに自分なりのこたえを探している様子のことなのだろうな〜と思ったのでした。

つらい出来事とか嫌な経験が人を優しくするなら…それはすてきだと思う…。
挫折が人を強くするってのも同じようなことを言いたいのだと思う。

だけどわたしは自分が挫折してるとか、つらい状況にあるとかずっと思えなかった。
思う資格がないと思っていた。
(↓↓過去にも書いてた/(^o^)\)
2012-02-06 ざせつ

うまくいかないこととか嫌な気持ちになることは確かにあったけれど、それらは別に取るに足りないことで、自分の人生や人格を豊かにするのには何の役にも立たない些細な出来事や感情だと思っていた。自分はいろいろなことに恵まれていると思っていたし、人生や人格を豊かにするのに乗り越えるべき試練はもっと壮絶で最悪で最低なものだと思い込んでいた。(これは同時に映画やTVのドキュメンタリーや小説の世界を真に受けすぎということでもある。)

つまり自分の経験やそれに伴う感情や気持ちなどを過小評価してきたのだった…。
そうわかっても、わたしはこれからも自分の失敗とか不運とか不条理を過小評価し続けるだろう。そういう性質なのだ…。

けれどこれからは、自分が些細な失敗とか小さな不運だと思うことがわたし自身を人間的に成長させてくれる体験であることを思い出すようにしたいと思う。超絶的不幸と災厄から今日もまたこの身を守れたことに感謝しつつ…。

きっとわたしの他にもたくさんいるんじゃないかな…。
自分の挫折とか不運を取るに足りない程度の失敗くらいに思っている人たちが…。

そう考えると、
見返りなど求めずに弱い人に優しくできるはずの人たちが
まわりにたくさんいるように思えるのだ…。