シオと恭二を長く描くにつれて彼らを「キャラクター」と呼ぶのが忍びない気持ちになってきました。
「キャラクター」扱いすることはある意味レッテル貼りです。
キャラクターは一つの物語の中で役割が決まっていて、それをまっとうするのがキャラクターとしての使命です。
わかりやすくいえば、いじめ役は最初から最後までいじめ役です。
真面目委員長は真面目委員長らしからぬ言動を許されません。
あえてギャップとして真面目委員長らしからぬ言動を付属されることもありますが、「真面目委員長」のレッテルから開放されることはありません。むしろ「真面目委員長」のレッテルを一層強化するためのギャップなのです。
人はレッテル貼りにより、わかりやすくなると同時に不自由になります。
一人の人が秘めている可能性が制限されます。
人は無茶苦茶複雑であり、パターン化したものから突然はみ出したり、法則への新しいアプローチ方法を編み出していくことができます。それは「キャラクター」には絶対できないことなのです。*1
そういうわけで付き合いが長くなることで一人の人に近づいてしまったシオや恭二に「キャラクター」という言葉を使うのがためらわれるのです。。。