「正しい日本語ができているかどうか」、「正しい日本語であるべきなのか」、「言葉は生き物だから普段使い慣れた言葉使いこそ本当の言葉」、そんな議論はコトの本質に触れていないと言えるでしょう。
「日本語をマスターしていると勘違いしている自分に気がつけているかどうか」が問題だとわたしは考えています。
日本語で会話が通じていることは日本語(という言語)を自在に使いこなせていることを意味しません。
だからわれわれは国語の授業を軽視できるのです。
だからキュレーションメディアサイトは読むに耐えない文章で溢れているのです…。
話し言葉と書き言葉は別物です。敬語の使い方も言葉の選び方もマニュアル通りでない部分があることを知ったうえで使い込んでいかなければ身につかないものなのです。
わかっていて混在させるのと、わかっていないで混在してしまっているのとでは出来上がった文章の質(とそこで表現したいものの放つ質感)が全く変わってしまいます。
わたしは最近になってやっと自分が言葉を使いこなせていないことを自覚できるようになりました。だからいろいろと気をつけるようにしていますが、言葉を選びとったり口にしたり文章に起こすというのは非常に面倒くさい行為だとかんじています。
このブログを書くのも正直しんどい。毎度途中で力尽きてしまい、書きかけの文章をそのままアップするという始末なのです。しかし、言葉の影響力について意識できてしまう以上はそれらを無視することはできませんし、出来る限り直していかなければ言葉を正しく使いこなせるようにはならないのです。頑張って続けるほか仕方ありません。
国語の世論調査の結果に寄っていく必要なんてないのです。自分の考えていることや質感を正確に伝えられるようになるために言語感覚を自分で磨いていくほかないのではないでしょうか?