今日の記事はいつもより長い。目次をつけたので興味のあるところからかい摘んで読んでもらってかまわない。
今回は、人から勧められたことをやってみることと、それに抵抗してしまった自分について書いた。
きっかけ:「この際カレー作りを極めてみたら?」
他人から「これをやってみたら?」と勧められたことはとりあえずやってみると良い。そうゲッターズ飯田さんが言っていた。自分自身のことはわかりにくいから、他人が「あなたにはコレが合っているんじゃない?」と言ってくれたことを素直に受け取ることが大事だと。
たしかに。
そんな矢先、松虫さんが「嘉村さんは人にはアレやれコレやれと言うわりに、私が勧めたことはやらんよな笑」と話してくれた。
わたしはもう一度、自分は何をやってみたらいいのかを松虫さんに聞いてみた。
わたしがカレーばかり作っているのを知って、
松虫さんが「この際カレー作りを極めてみたら?」と提案してくれたとき、わたしは「そういうのがしたいんじゃない」と答えたという。
松虫さんはこのときわたしのことを、普段食べているものをさらに美味しくなるように知識や労力を費やすことに重点を置いていないのだなと感じたそうだ。
↑5月に作ったシャークカレー。
松虫さんの言う「スパイスカレーを極める」って、レストランで出てくるようなカレーのようなものかなあとイメージした。誰が食べても美味しいと感じてくれるようなカレー。
そういうカレーを作ろうとする自分を想像したときになんだか違う気がした。
わたしは美食家ではないが、決して食に興味関心がないわけではない。
わたしは一体何に抵抗しているのだろうか。
わたしにとって美味しい味とは
この機会にいま一度考えてみると、わたしの「食べて美味しい」「食べて幸せ」という感覚には数種類あるようだ。
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みんなで食べて楽しむご馳走の味
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素材の味を楽しむための味
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素材の違いを感じるための味
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食べすぎないで済むための味
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感覚を麻痺させるドラッグ的な味
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未知の味
みんなで食べて楽しむご馳走の味
これは外食の味。料理人が作ってくれる味。味に存在感があっていくらでも食べたくなるような味。誰かと一緒に食べて楽しみたい味。
たぶん松虫さんが目指している領域の食の豊かさはここかなと思う。
この領域はわたしが担当する必要のない部分。自分よりずっと優れた人たちが担当してくれているから。
素材の味を楽しむための味
食材自体の味。トマトの味。豆腐の味。キュウリの味。鶏肉の味……etc.
素材の特徴を味わう楽しみ。味付けは無しでも良いし、調味料自体の意味も知りたいので少しずつ量を変えながら食べて理解する時間を持つための味。
いま現在のわたしが求めている味を探す作業。
素材の違いを感じるための味
前の項目に似ているがこれは同じトマトでもトマトの品種や調理方法で味がどう変わるのかを楽しむもの。
食べすぎないで済むための味
わたしは食べるのが好きなのでどうしても調子に乗って食べすぎてしまう。濃い味付けにすると相対的にごはんが美味しくなってしまい一回に1合くらい簡単に食べられてしまうため、薄めの味付けで肉と野菜だけが美味しく感じられるラインを探している。多めの汁を美味しく飲める塩の濃度も探している。
感覚を麻痺させるドラッグ的な味
いわゆるジャンクフード。そういう刺激的なものも美味しい。世の中で流行っている味とかを食べると世の中のムードを知ることができるような気がする。自分の好みと合えば嬉しいし、合わなければ人との違いがわかって嬉しい。
あまりにも中毒性がありそうだと思うと美味しくても2度目に手を出さない。
未知の味
冒険心、好奇心を刺激してくれる味。
こうして細かく連ねてみると味にうるさい人のように見えるが、実際は一つ一つの味を覚えているわけではない。そんなことができたら今ごろ味覚コンシェルジュとして特殊な仕事に就いているかもしれない。
わたしは味という情報を食べているのかもしれない。
しかもその情報を受け取ってからまとめるとか分析するとかするでもなく、食べたその瞬間で満足してしまう。何か理想の味を作りたい欲があるわけでもないのだろう。
人前に出せるような美意識がないこと
もっと深刻な問題があって、わたしは人前に出せるような美意識を持ち合わせていない。それが非常に恥ずかしいと感じている。
「自分だけの美的感覚」がどこか頼りない感じがする。人前に出すと消えてしまうくらい弱々しい。
松虫さんにスパイスカレーを極めてみなよと言ってもらったのに、「わたしにはできない」と思ってしまったのもここに由来すると思う。
わたしには松虫さんが納得するカレーを作ることは絶対できない。それが恥ずかしくてやりたくなかった。
わたしだけの美味しいカレーと料理
しかしながら、これはわたしの頭の中の幻覚で、松虫さんはそんなつもりで言ったのではないと思う。
わたしだけのスパイスカレーを極めていいという意味だよなと、今なら思う。
自分が本当に美味しいと感じる味を探すように料理をしていいんだよなって。誰にも同意してもらえなくても、わたしは仕事で料理をしているのではないのだから。誰かを喜ばせる料理なんかしなくても大丈夫だし、「自分のためのカレー」に自信を持っていいのに。
わたしはみんなにも、そういう自由な料理をしてほしいと思う。
自分の感覚を研ぎ澄ませてほしいと思う。
誰かが決めた「正しい味」に自分を寄せる必要はないって思う。
だからブログに日常の食事を飾ることなくそのまま載せているのかもしれない。映えなくていい。こういう食事で本当に幸せだから。わたしは全てにおいて、どう頑張っても人工的な美やコーディネートと交われない人間だから。
↑映えない謎の地味スープ。
臆病を乗り越えて……
ただ、こんな食事でこんなセンスでこんな感性のせいで人をがっかりさせてしまうことが怖い気持ちは常にある。「誰もお前に期待なんかしてねーよ。」バカみたいだけど。
わたしにがっかりしてしまった人に対して何の感想も気持ちも感情も持ちたくないのだ。
ちょっぴり傷ついた自分を納得させるための言葉すら頭の中に思い浮かべたくない。
そういう臆病が、自分の可能性を狭めていたのかもしれない。
そういえば、妹からも先日、「カレー専用のアカウントを作ればいいのに」と言われた。
前向きに自分のカレーを作ることを楽しもうと思う。
誰かをがっかりさせた瞬間、わたしも相手にがっかりする。そういう現実を受け止めて、また全部を愛すればいいのだろう。
何も切れたりはしない。
切れても繋げばいいし、それをするのはいつも自分だ。