「自分」というものをどこまでも消失させていけたらいいなあと考え始めたこの頃です。
人と対峙するとき、自分のことをもっとわかってもらわなきゃ!相手のことをもっとわかろうとしなきゃ!という焦りがありました。
人と話す時間は限られており、その中で自分を知ってもらいたい気持ちや考えを伝えたいという気持ちが強すぎました。また相手も同じくらいそのような想いがあるのだろうと思っていました。(我ながら鬱陶しい限りです。)
しかしそれでは楽しいコミュニケーションがなりたちません。
自分が抱いている自分のイメージは(良くも悪くも)理想でしかなく誰にとっても面白いものではないみたいです。
人は自分の鏡と言われますが、これからはまさにただの鏡になれたらいいなあと思います。
ただただ相手を映し出せるようになれたらいい。それは相手に同化することであり、寄り添うことであり、経験と心を共有することのように想像します。ここでいう共有のイメージはマシーンの同期みたいなものです。感情はひとまず置いておきながら他人の経験とそれに伴う思考を自分に取り入れる所作。
「私」も「私らしさ」 も、そんなに重要ではないのかもしれません。
それよりも「あなたらしさが素敵よ…」というメッセージを伝えられることが必要だったのかなと思います。
「自分」があることで相手と自分を比較してしまう。比較した結果の言葉ばかりが口をつく。「自分」を手放したらもっとナチュラルな(その辺の草とか石ころみたいにただそこにある)言葉が出てきてくれるんじゃないかと想像します。