低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

「共感=わかる」ではない

漫画を制作していて長らく「共感すること」「共感できること」をとても良いこと(プラスでポジティブ)だと考えていました。

しかし最近になって「共感する/した」は「理解した」とか「わかる」を意味しないのだと感じるようになってきました。

自分と他人を同一視したり、他人との共通項を見つけては一喜一憂する感じが不健康の原因にもなっているように見えます。本当の意味で理解したわけでないのに理解したと思い込むから、現実と内面でギャップが生じておかしくなるのではないかと考えています。思い込みで世界を見ていると、現実をありのままに見れなくなるため障害物を避けられず正面からぶつかって怪我をするです。

 

少女漫画を作る現場では常に共感できる漫画であるかどうかが大切とされてきました。

学校の読書感想文も共感できるところと共感できないところを見つけて、そこを丁寧に説明したらいっちょ上がりなところもありました。

 

自分の外側との共感ポイントを探すこと、

自分の感じていることに共感してもらいたいという気持ちになること、

一方で共感できないことが不同意とみなされたり、自分が他人に共感できないこと自体に傷ついたり戸惑ったりすること……。

「共感」自体を目的にするといけないのかもしれません。

 

 

共感は楽しいものです。

同じ気がする!それわかる!の気持ち自体は楽しい感情や嬉しい感情を呼び起こします。

だからといって他人が自分と同じになるわけではありません。「一部に共通項があるっぽいから面白い」だけで自分と他人は別物でそれぞれ単独に自立した存在です。

 

大事なことは、

共感にそれ以上の意味を付け加えたりしないこと。

共感を理由に対象物の良し悪しを判断しないこと。

共感から連想した妄想で自分と他人を関係があるように紐づけないこと。

「共感」という現象は実際に起こりますが、それ以外の意味はないといつでも自覚的でありたいです。油断するとウキウキした気分に引っ張られて「共感したからわかりあえた」とか勘違いが始まりそうだからです。

「共感」と「わかり合う」は全く別の現象であると思います。