低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

恐山の話

恐山の宿坊に泊めてもらってちょっと思ったことをメモ。

恐山の宿坊は新しい建物で中も広くとても綺麗なところでした。
質素でキビシイ修行を体験してみたくてお寺に泊まりたいという人には
ガッカリするところもあるようでした。
食事も精進料理で肉がないとはいえ品数も豊富でとても美味しいご飯でした。

同じ日に泊りに来ていた人の中には「寺がこんなに快適でいいのかまったく」とこぼしている人もいましたが、そのような意見をちょっと離れたところで聞いていたら修行は強制してさせられるものでなく自分自身でするものだと感じられたのでした。修行や学びは寺に迎え入れられたそのときから、(もしくはずっと前から)始まっているようでした。
(わたし自身は修行的なものを期待して行ったわけでなかったので、かえってそのように思えたのかもしれません…)

昔からある有名で大きなお寺が貧しいわけもなく、訪れる人々を出来る限りもてなしてくれる(ここで言うもてなすはサービス業のそれとは違います。)ありようがこのような綺麗で快適な施設と美味しい食事なんじゃないかと思いました。それは目の前に現れたよく知らない人をどう迎え入れるかを先んじて示してくれているということではないでしょうか。

食事のときには食事五観の偈を唱えてもらいました。

五観の偈には

己が徳行の全缺(ぜんけつ)をはかって供(く)に應(おう)ず。
→私は今この食事を戴ける程日夜精進努力しているかどうか反省する。の意

というのがあって、「わたしはこれほどよい待遇を受けられるほど誤魔化しのない生き方をしただろうか」とショックを受けました。わたしはその日たぶん、恐山の敷地に落ちているゴミでも拾ってゴミ箱に捨てるべきでした。(入山して歩きながらお供えものかと思われるお菓子の包みがたまに散らかっているがとても気になったのでした…気になったのに拾わなかったのでした)

わたしは日頃後悔することなどあまりないのですが、そんな小さな自己欺瞞に気づくとなんだか非常に気不味い思いがして誰がわたしの一日を知っているわけでもないのに情けない気持ちになりました。今までもこんな調子でわたしは一日の記憶を自分の都合のいいように書き換えて生きてきたのかもしれません。

恐山には漆の木がたくさん生えていました。
触れるとかぶれて大変なことになるので気をつけてくださいましね。
わたしもお寺の方に教えてもらわなかったら気づかず触っているところでした(^o^;)