低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

何をしても自分が跳ね返ってくる

作品の中に込める想いやテーマ。

それはわたし自身の内面を反映してしまうものなのかもしれない。

 

わたしは常に変化し続けていて、前回の話を作っていたときと興味も世界の見えかたも変わっている。だから前回のお話を練っているときに計画していた展開、キャラの心境や問題意識も「今」のわたしとズレてしまってうまく描けないのかもしれない。

ひと月前のアイディアが使えなくなる。

7年も同じ作品を描いていればそのズレはズレどころか別モノに……。なんてことでしょう。

 

話の続きを考えるとか、先の展開を作っておくとかが上手くできないのはそのせいかもしれない。わたしは、「今のわたし自身」を描くしか、できないのかもしれない。

 

うう……考えると、吐き気がするほど、いやだ。

 

自分の感じていること、考えていること、面白いと思っていること、嫌だと感じていること、わたしの目に見えている世界。そういうものをありありと描くこと。わたしはずっとしてこなかった。少なくとも、自分自身を描いているつもりがなかった。キャラと自分を重ね合わせて描くなんて意識がなかった。そういう物作りを良くないと思っていた。アシスタントさんたちには「自分の見えているものをそのまま描いたら充分面白いんだよ」って話していたのに、当のわたしはできていなかったんだと今になって知った。

 

何をやっても自分に跳ね返ってくる。

自分自身を書いていなくても、作ったものから自分が透けて見えてくる。

自分を書こうとすると何が見えるのだろう。なりたい自分、理想の自分、空虚な自分かもしれない。それを作品を通して見たときに、実際の自分はこんなんじゃないんだよな……と確かめられるのかもしれない。

 

こうやって自分自分……と書いていると自分のことしか考えていないしょうもない愚者に感じる。だからといって「わたしは自分に興味無いですー」とうわべで振る舞うことを続けていたら、本当の意味で自意識から離れることはできない気がする。

自分を知ってはじめて、自分を捨てられる。

一度に全部の自分を捨てられるのではなくて、数百に散り散りになった自分の欠片を指差し確認して一つ一つ消していく感じだ。時間がかかる作業かもしれない。

自分にとって未知な部分を知ってしまえば謎はなくなる。謎があるから気になるし不安になったりあれこれ悩む。謎ゆえにどうにでも解釈できてしまい幻を見る。

自分自身に対するミステリーを消していくこと。それが大人になることなのかな。

 

それはつまらない存在になることではなくて、自分以外の存在に目を向けられる準備の段階だったりしないのかな。

自分の外側をありのままに見つめられる心を作ることに繋がっているのかな。