低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

集中状態が少しわかった話―音と静寂―

こんにちは、嘉村 朗です。

本当の意味で「集中している」状態になっているとき、自分が注意を向けているもの以外の情報は一切遮断され、誰かに話しかけられても気がつかないくらいになるそうです。

 

瞑想の練習方法を教えてもらったので試してみました。

これまでも瞑想を教えてもらったり、個人的に取り組んではきました。しかしながら、瞑想をちゃんとやれているのかの手応えがいまいち掴めずにいました。

 

教えてもらったのはとにかく一つに集中すること。

教えてもらったとおりに、そこに意味や感想、印象や考えを一切持ち込まず、ひたすら対象に集中することをしました。

 

その日、わたしは本を読むことに集中してみました。

教えてもらった「集中すること」の通りにやりました。

するとその時初めてわかったことがあるのです。

 

わたしは確かに集中していました。

そのとき、わたしのまわりには人がたくさんいて談笑していました。わたしが集中状態にあったとき、周りの会話は聞こえたままでした。しかしその会話に内容はなく、すべての音がただの「ざわざわ」という音として耳の鼓膜を揺らしているようでした。

すべての音がテレビの砂嵐映像のように聞こえていました。

 

わたしは初めて「静寂」を理解しました。

 

今までのわたしは、「集中状態」に入ると無音で無重力な宇宙の空間に放り出されたような精神状態になるものとばかり思っていたました。キーンと耳鳴りがするくらいの無音の空間の中に入るのだと思っていました。

でも実際は、聞こえてくる音に一切の意味が消えて、無数の音の粒が身体の周りに在るだけの状態になりました。

さざなみの聞こえる浜辺に立ってぼんやりするときでも、静寂さを感じることがあると思います。波の音は絶えず聞こえてきているにも関わらず、ひとは静寂を感じます。そんな感じで聞こえていても気にしない状態、注意を向けていない状態を「静かである」というのだなとわかりました。

ひとけのない山で佇んでいるときの静寂さも、図書館の中の静寂さも、雨の日の静寂さも、全部音は存在していて耳に届いているけれど、音を聞いていない感じ。

 

今回は音の静寂さに気がつけましたが、目で見る光、身体に触れている感覚、鼻で吸い込む匂い、食べたときの味というものも、意味が消えてしまう感覚があるのでしょう。