低徊趣味ぶろぐ

漫画家・嘉村朗のブログ

葬儀のいみについて

死者を弔う行為についてちょっと気付いたことがあるのでメモしておこうと思う。
(2012.11.16現在の気付きなので今後全然違う答えがでることもある)

葬儀をあげたり、形式的に死者を祀り冥福を祈る行為は、
目の前の死者のためというより、
いつか自分が死ぬときのためにあるのではないだろうか。

bodyはいつか必ず死を迎える。
bodyが死んだとき、わたしの心は、精神は、
生者としての終りが来たことを悟れるだろうか?

自分のbodyが他者によって弔いの儀式をあげられている様子を見たとき、
(見るといっても肉眼は使えないので、おそらく「見ている」気持ちになっている感じだと思う。夢みたいな。)
「あ、俺 死んだんだ!」
と死者が気づけるようにするための意味があるんじゃないか。

(bodyが死んだと同時に「やったー!自由だ―!!」てな感じで
さっさと死を受け入れられる場合もあると思うが、
全員が全員スムーズに死ねるとも限らないので
念のため、死者のために儀式を行うのである。)


自分が死んだときに、儀式を見たことで「死んだんだ!」と気付かせてもらうには、
喪の儀式というものを予め知っていなければならない。

自分がまだ生きているとき、先に死んだ人をきちんと弔うことで
その経験を身につけることができる。
いつか死体となるであろう自分も、
こんな風に見送られるのだなあという経験をさせてもらう。

つまり、自分より先に死んでいく人は
まだ生きている人たちに死の予行練習をさせてくれているということになる。

他人の死は、自分の死がスムーズに行われるよう見本を見せてくれている。
わたしの死もまた、誰かの死が安らかに執り行われるためにあるのだろう。

他者を弔うのはいつか死ぬ自分のため、
葬儀を次代に継承させるのは自分以外のみんなも安らかに死ねるようにするため。
かもしれないなあ・・・


最近は葬儀を簡略化していく方向にある気がしますが、
(わたし自身、自分の葬儀に関しては
ごく簡単に済ませてしまって構わないと思っているし、
墓だって別になくてもいいしーくらいにしか思っていなかった。。。)
太古からみられる儀式にはそれなりの理由がちゃんとあるはずなので、
面倒だからといって、
自分の都合で儀式を行う慣わしを止めてしまうのは
いかがなものかと自分に問うてみたのでありましたまる。