密教旅は最終回にしようと思います。
今回の旅行では密教のこと自体は全然わからなかったのですが、
一人でも多くを即身成仏へ至らせるため、即身成仏への方法を伝え残すために、あの手この手で人々に気づかせようとする試みの痕跡を見た旅でした。
何かに気がつくこと、理解すること、腑に落とすこと……そういうことは正しい「やり方」をなぞれば達成できるものではありません。
自転車のように、乗りかたを体得するにはとにかく自分の力でペダルを踏み込んでみるしかありません。体験はその人ひとりだけのもので、感じかたも学びも本人だけにしかわからないものだからです。
悟るというふわふわした感覚を気が付かせるためのヒントや方法を残すことはできても、それによって全員がうまく悟ってくれるわけではありません。人の数だけ悟りの道があるからですね。(悟りという単語は物凄く神聖なことのように受け取るかたもいますが、わたしは当たり前すぎることを当たり前だと腑に落ちてしまう感覚だと思っています。例えば、「挨拶をされたら挨拶し返すものだ」とか)
経典も仏像も仏閣も曼荼羅も宝具もみんな、衆生をどうにかして救うための工夫の痕跡であり装置なんだと思いました。これらの装置は空海ひとりが作ったわけではありません。何かを悟った人たちがそれぞれのやり方でメッセージを残したという意味だと受け取りました。
↑お土産。中にあんこが入っていてすごく柔らかいお餅。かるかや餅というきなこのまぶされたお餅も柔らかくて美味しいです♡
わたしには漫画で伝えたいことがあります。
でもそれは言葉にして伝えてもわかりにくいものです。
キャラのセリフやモノローグで直接書いてもほぼ伝わりません。(もちろん表面上の理解や共感はできるし、それが快感であることも大切です。)
読者さんが自分で「勝手に気づいてしまった!」と、そんな感覚を手に入れてもらうほかないメッセージです。わたしは今回の旅行を通じて、「伝えること」についてもっとしつこく丁寧に、幅広く仕込んでいく必要を感じました。そのためにも密教のアプローチを知りたいと思うのでしょう。
一日もはやく原稿に復活できますように。
終わり